実録 蘇生した介護老人

第8話 老人介護保健施設(施設C)へ入居 -実録 蘇生した介護老人-

第8話 老人介護保健施設(施設C)へ入居 -実録 蘇生した介護老人-

老健施設(施設C)に移転する日の午前、息子が病院に寄り、 私のささやかなベッド周りの小物をまとめ、彼が用意したシャツ、ズボンを身につけ、スニーカーを履き、ジャンパーをあおって、車椅子に座り、施設差し回しの介護専用車に乗り込んだ。

前年11月以降実質的には3ヶ月に過ぎないにもかかわらず、娑婆を離れて1年も経った実感がして、車が走り出すと右や左の住宅、ビル、交差点の信号がすべて新世界に映った。事実、これから向かう施設Cの近辺は、東京でも私には未知の土地だった。息子は無口の男だから、15分程の車中殆ど話を交わさなかった。

着いた施設Cは大きなビルの1階に案内板があり、そこの6階にエレベーターで上がった。6階の2人部屋だが、一人分は空いているためかB病院の二人用病室より大分広い。息子が私の年金ギリギリの範囲内で納めるよう、但し4人部屋はかわいそうだと考えて定めた部屋だろう。後日私の悩みの種になる。

そこで、私は施設の事務局責任者と挨拶を交わし、すぐベッドに横になった。息子は大型のキャリーバッグから私が使う衣類、眼鏡、女房の遺影などを取り出した。しかしケイタイは持ってきてくれない。これも後々不愉快な問題を醸し出す。衣類等は、施設スタッフが部屋備え付けのワードローブにしまい込んだ。

息子は5階の事務所で入所の手続をするため私と別れ、私は昼食を頂くため直ぐそばの食堂ホールに連れられた。私の席は机の左端のネームプレートのあるところで、そこで新入の簡単な挨拶をして、入所のセレモニーは終わった。午後は、パジャマに着替えて一休みした。

施設に入所して間もなく、静岡県在住の長男がその嫁さんと一緒に―BMWを運転させるのでいつも帯同させるー見舞いにやってきた。職員の案内を得て、食堂ホールの先の家族面会所の部屋に足(車椅子)を運んだ

「やー、暫く、来てくれると嬉しいよ」と私が言った。

「親父、だいぶ良くなったな。国立病院に行ったときは、人工呼吸器をつけ、凄まじいような数の管を体に刺され、これは死ぬなと思っていたよ。」 そんなひどい状態で国立病院にいたことを初めて聞かされた。

次男は、その前のB病院のときに私に言ったかもしれないが、私には覚えがない。B病院に入院の間は、なぜそこにいるかから始まり、後は不自由になった身体との闘いだけで、どれだけの期間そこに居るのか、居続けたのか、知ろうとする気力も意欲がなかった。随分長かった感じだったので、次のように長男に問うた。

「おい、俺はB病院に1年近く居ったのか?」

「なに言っているんだい。2ヶ月ぐらいだよ」

「そんなことないよ、もっと長いはずだよ」、私が真面目に問い返す。

「違うよ。息子としてちゃんと見ているのだよ」、見ているのではなく弟から聞いて居たのだろう。

「おかしいな。後で調べてみるよ」

嫁さんは横にいて、ただ、にたにたしていた。

それから、前年の行動記録を手繰り(たぐり)始めた。私は能率手帳に日記をつけていたので2015年の手帳を見れば、途切れた区間はその前の行動を見れば直ぐわかるのだが、息子が届けてくれた手帳はなぜか2014年のものだけだった(私の死亡の可能性のごたごたで亡くしたのだろうと思い、その後は手帳の入手はあきらめた)。私は、入院が1ヶ月前か1年前かは別として、顕著に思い出に残る二つの行動をしている。それは親戚会合で仙台の秋保温泉に泊まったこと、従兄弟2人をつれて防衛事務次官室を訪ねたことである。

前者は母系の従兄弟姉妹中17、8人(母は10人兄妹で、もともとは23人いた筈)が仙台の叔母の米寿の祝いを秋保温泉で開催するので、私だけは新宿からバスで景色を楽しみながら仙台駅に行ったこと。集合した従兄妹どもが旅館の送迎バスでがやがや語りながら宿に向かい、主催者叔母家の迎えを受けて宿に入り、先ず、露天風呂を楽しんだこと。そして、皆で宴会に臨んで、それぞれが近況報告を交わした。忘れられるわけはない。その翌日は妹2人と登米市を訪ねた。父系の高祖父〈4代前〉が伊達藩の登米城の家老をしていたと解せる家系図があり、これを実証する記録の存在を尋ねる目的である。市の職員が城の上棟の柱に藩の高位の人の名前がある写しを見せてくれたが、彼の名は下の方に出ていた。家老職より大分下だった。 それ以上の探索は止めて北上川を見に行った。2個の目的を果たし充実した気分だった。

後者は、従兄弟の最年長組の3人が、末従弟の防衛省次官Nが退官する直前に私的訪問して役人生活にご苦労さんの挨拶をしようとして、同省を尋ねたところ、入口の門に海上自衛隊の格好良い軍服を纏った美人女性海自二尉(肩に横棒線2本に星2個の階級章があった)が迎えてくれ、赤絨毯を踏んで次官室迄案内を受けたこと。会議用テーブルがある次官室の応接ソファーで楽しい会話を交わした後、今度は別の事務官の案内でA級戦犯の法廷となったホールを見学し、裁判官席に上がってみたこと。3人で持った得難い場所と時間は忘れられない。

これら2個のイベントが2014年の手帳には載っていないのである。そうするとこれらは2015年だったのかと思い直し始めた。施設に見舞いに来た妹に、「あの仙台に行ったのはいつだっけ?」ときいたら、2度目に彼女は2015年10月24日だと明言し、私が長男と交わした論戦は私の負けになった。B病院に入るまで1年の空白があったように思っていたことは私の倒れたとき以来の記憶細胞の欠落に因るものだった。

次回へ続く・・・

 

著者プロフィール

大山 Tak 卓 1931年生まれ。

介護ホームローズ(仮名)入居者。東京大学法学部卒。国税庁入庁(大蔵事務官)、税務署長。エッソ石油(現エクソンモービル社子会社)税務部に転職、東京及びニューヨーク本社在勤。その後、ファイナンス会社数社の経営に参画。対米、カナダ、香港の投・融資・契約業務実施。国際経営コンサルタント。

編集者:野口 Kao 廣太。1986年生まれ。介護ホームローズ(仮名)施設長。理学療法士。デンマーク国立Egmont校卒。スヌーズレン施設設立。教員アシスタント。デンマーク福祉施設にて障碍者、高齢者への支援を実施。

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ABOUT ME
堀田慎一
経営コンサルタント/MBA/大阪市立大学大学院非常勤講師 1992年より2015年まで大手経営コンサルティング会社にて勤務。うち2002年から2005年まで一般財団法人医療経済研究・社会保障福祉協会医療経済研究機構にて勤務。2016年より一般社団法人国際福祉医療経営者支援協会代表理事。