実録 蘇生した介護老人

第16話 リハビリ① -実録 蘇生した介護老人-

第16話 リハビリ① -実録 蘇生した介護老人-

身体機能リハビリ

入居後1ヶ月ぐらいから、古川理学療法士(トレーナー)から週4回、各30分のリハビリを受けることになった。車椅子を使用していたが、それを傍に置いて、歩行器に肘を掛けて歩く訓練から始まった。体を少し前かがみにし、顔は前を向き歩行器の裾の辺りで足を運ぶ歩き方を教わり、直ぐ慣れて次第に速歩きが出来た。手や腰を支えられて歩くより数段楽だ。エレベーターで初めて5階に降り、機能訓練用コーナーに行き、歩行器を離して平行棒歩きをしたあと5段のミニ昇降階段でサイドの手すりに触れながら、一段ずつ片足を他の足に揃えて上り下りする訓練は楽すぎて、もの足りなかった。

歩行器はまもなく一日中の使用となり、トイレも風呂もそれで行くようになった。従って車椅子は用済みとなり、食卓には普通の椅子が置かれた。これらの決定権はリハビリ先生に属する。歩行器使用は、一月にも足りない期間で杖使用に昇格し、施設から杖を渡された。そのとき、「ああ、俺は今後一生杖突きの老人として過ごすことになるのだな!」と、一入(ひとしお)の感慨を抱いた。杖使用の段階に昇格してから、リハビリの仕方が強化かつ多様化し、行動半径も廣がった。

廊下を歩き出す前にホールの中で脚力強化の訓練が厳しかった。椅子に座らせられ、背筋を立て、先生が向かえに座り、私の右脛(すね)を手で押さえる。10をゆっくり数える間、脚を前に伸ばせというのだが、先生の抑えは5あたりから重しがきつくなる。ウンウンうなりながら脚を上げようとするが抑えは一層強くなる。9で限界だが、先生は「もう一つ!」と怒鳴る。私は最後の力を振り絞る。先生は「できました」と言って褒める。次が左脚だ。初日まで気付かなかったが左の方が弱かったのである。7ぐらいから先生の抵抗を跳ね除けて持ち上げることが出来なくなる。右脚への重しより少し抑えを緩めたのだろうが、先生は10まで強行させる。ちきしょうちきしょうと思いながら頑張る以外にない。これが1週間に4回だが、次第にきつさを感じなくなった。エクササイズが効いてきているのだ。

階段の昇降は、訓練用5段のミニ階段から、施設の6階から8階までの踊り場を踏めて都合60段、時には屋上まで80段の本物階段の昇降へと強化された。この時は、杖を使わずに、先生の見守りだけで、始めは手摺につかまり、後は何にも使わず10段ずつ上り、踊場で深呼吸するという方法が取られた。手摺は掴むというより触るだけで楽だが、手を離すと如何に不安定かを実感した。下りは更に不安定だ。姿勢は真っ直ぐ、顔は下を見ず正面を向かねばならないので足元は踏み外さないかと怖くなる。外界にいるときは、階段のステップを見て昇降するなどはしなかったではないか。

廊下を歩くときに先生は、「あの高いビルは区営の高層マンションです。こっちは仙源寺です。ごらんなさい、桜が満開でしょう」とガイドしてくれた。天気のよい時には屋上のテラスにのぼり、より広い展望を眺めながら外気を吸わせてくれた。籠の鳥になっている私は実に嬉しかった。外気が吸えるリハビリを受けない他の人達は、籠に入ったままの日常をどう思っているのか、慣れきっているのかなどを思い遣った。

訓練の3ヶ月目には、いよいよ待望の外歩きに連れ出して貰った。歩道橋の階段を往復し、施設の大きな建物を回る歩道を歩くと普通の通行人が行き違い、これが普通の社会なのだと不思議な感触になる。しかし、歩きながらよそ見をすると、頭がふらつき、歩きが不安定になるのを先生は見逃さず、「よそ見はしないで」と注意された。

 

リハビリ2ヶ月を経た後の頃、先生が「此処の施設はリハビリが上手く進んだら、入居3ヶ月後には自宅に帰って行くことになっているのですが、大山さんはどうする積もりですか?」と私に問う。私は初耳でびっくりした。息子からも聞いていない。彼も認識してないのかもしれない。直ぐ事務責任者に聞いたら、「3ヶ月でなくとも、今年一杯が限度です」と確言する。

この大問題を息子に手紙したら動き始めた。彼の自宅(私が少し前まで別世帯主として住んでいた所)は家族にもろもろの事情があり、帰れないからだ。

私は友人、妹、静岡の息子、スナックのママ、知合いの区会議員に手紙を出して情報を依頼した。入手したパソコンで検索もした。リハビリ先生は、心配してくれて歩きながら「息子さんの家はだめなンですか?」と問うと共に、「もう歩けるのだから普通の賃貸住宅で一人住まい出来ますよ」と激励しながら、彼の居る近傍のマンション等も勧める。当施設を出た後も「リハビリを指導しますよ」との含意だ。彼のオファーは有り難いが、私は自立した社会生活は願望するものの家財用具を揃えて自炊生活をするには、リハビリの成果に関係なくとも、体力・気力が最早伴わないと、無気力と言うより、経済を独りでやり繰りもする社会生活には最早適応できない。

従って、同窓会出席などぐらいの外出自由、パソコン使用や趣味の自由、3食付き、常識的介護サービス付き、それでいながら年金と少ない預貯金でできる終(つい)の棲家の生活を望んだ。それらの条件を満たすには地方落ちもやむを得ないと覚悟した。

先生による身体的リハビリは、4ヶ月目からは規則により週1回に減り、施設外への外歩きトレーニングは時間的制約のためなくなった。外に出ないので面白くないが、仕方ない。替えて、私には両脚ストレッチと片脚立ちの訓練での筋肉強化の訓練が重点化された。ホール内の壁に向かい合って立ち、先生は背後に立って私の全身の動きを注視する。片脚立ちは要介護度認定における身体的評価の重要項目であることは知っている。20秒以上出来ることが健常者の状態である。先生は「10数える間」を私の課題にした。私は、左脚が弱くなっており、5を数えるのが精一杯で、自習しても回を重ねても向上しなかった。右脚は10数えても余裕があつた。なる程、私は自立がなお困難な状態であり、「マンションで生活出来る」とは先生のリップサービスだったかもしれないし、彼のもとで強化訓練を継続しろという示唆だったかもしれないと忖度(そんたく)した。

片脚立ちの後は、壁に両手をつき、上半身を垂直にし、右足を動かさずに左足を最大限後ろに下げ、踵(かかと)を上げず、20を数えるのである。左脚のふくらはぎが突っ張って痛くなる。次に脚を交代するときは、素早く左足を壁側に引っ込める。これは痛いが片脚立ちよりは楽だった。

3ヶ月の強化トレ-ニングの後は外歩きが出来なくなり、これらの片脚立ちなどに限られたことの補完として、先生からは、毎日朝、昼、夕の3回、廊下歩き2往復を欠かさないで下さい(但し、杖突き、マスク付けが条件)と言われ、喜んでこれをしていた。片道120歩だったと思う。南側(あっち)の部屋番号の位置や自分が何処で寝ているか分からないといっている栗村さんや愉快な竹貫さんの部屋の表札が見えた。一人部屋、四人部屋は分かったが、二人部屋はないようだった。序に5階と7階も歩きたいが居住者は別のフロアーには行けなかった。エレベーターの脇にある番号を押せないからだ。恨めしそうにエレベーターの横の大きな窓越しの外の景色を見る。それは、私の部屋と違った方向なので高いビル群が見渡せ、気分をレフレッシュさせることができた。

先生から強化訓練を受けていた最終期に、施設貸与の杖を私用の杖に替えてくれとの意向で、杖のカタログを預けられ選定にかかった。なる程、こんなに多数の種類があるものだと感心していたが、最終的に、先生の勧めで現在使用中の杖と同タイプの廉価な物で十分だということになった。その購入のため、事務所は息子の承諾をとった。

時を同じくして、先生の指示により、私のトイレ行き(おしめ付き)はベッドに並列してポータブルトイレ(おしめ無し)を置くことに替わった。これは、夜中に寝ぼけまなこでトイレに立つと杖を付いてもふらつく危険がある、そのリスク回避のためだというが、少し過剰な配慮と思った。しかし、このトイレは楽だった。ベッドに座ってお尻を横にヒョイと横に移すだけで済むからだ。夜と朝に見回りに来るスタッフと用を足している最中に時々目が合った。そのスタッフが朝食後その便器の中の尿瓶(しびん)を手に提げて捨てに行く途上で再び目が合ったときは、「どうも済みません」と声を出して謝意を表現する以外に挨拶の仕様がなかった。

 

 

著者プロフィール

大山 Tak 卓 1931年生まれ。

介護ホームローズ(仮名)入居者。東京大学法学部卒。国税庁入庁(大蔵事務官)、税務署長。エッソ石油(現エクソンモービル社子会社)税務部に転職、東京及びニューヨーク本社在勤。その後、ファイナンス会社数社の経営に参画。対米、カナダ、香港の投・融資・契約業務実施。国際経営コンサルタント。

編集者:野口 Kao 廣太。1986年生まれ。介護ホームローズ(仮名)施設長。理学療法士。デンマーク国立Egmont校卒。スヌーズレン施設設立。教員アシスタント。デンマーク福祉施設にて障碍者、高齢者への支援を実施。

 

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ABOUT ME
堀田慎一
経営コンサルタント/MBA/大阪市立大学大学院非常勤講師 1992年より2015年まで大手経営コンサルティング会社にて勤務。うち2002年から2005年まで一般財団法人医療経済研究・社会保障福祉協会医療経済研究機構にて勤務。2016年より一般社団法人国際福祉医療経営者支援協会代表理事。