夏近いころ、ある職員が「近いうちにお部屋に一人入りますよ。大人しい人だと聞いていますよ」と私に告げる。「そう願いたいですね」と応える以外にない。同室の相手を選ぶ権利は入居者にはない。どうしても厭な場合は自分が他の部屋(ベッド)への移転を強引に申し入れるより道がない。これをした女性はいる。
昼食時に、顔付きの厳しい老人がリクライニング車椅子にのり、奥さんと子息とおぼしき人達が職員達の案内で私の部屋にドヤドヤと入っていった。隣人になるのだから挨拶があるかなと思ったが、そんなことはなく、半時間ほどで出て来た。ベッドで寝ている新入の隣人に当方から挨拶するまでのことはないと、そのまま忘れることにした。その人は、北側ホールの別のセクションで、独力で食事をしていたのは見た。その夜が大変だった。
その夜9時、南側ホールでテレビの消灯時間になって部屋に戻り、電気を少し明るくし、パジャマに着替え始めたら、「誰だ!」と怒鳴られた。不審者の侵入と思わせたかもしれない。
「隣人の大山といいます。隣のベッド同士ですから仲良くしましよう」と下手に出た。
「そうか」と、彼は尊大に言った。
夜中が大変だった。
「おーい、おーい」と何度も騒ぎ出す。
「うるさい!静かにしろ!」とこんどは私が怒鳴った。一瞬静かになるが、5分後にはまた騒ぐ。ナースを呼びたいのかもしれない。
払暁(ふつぎょう)4時頃、夜勤のナースが来て、電気をつけ、掛け布団をたくし上げ、「そんなところ、いじくっちゃ駄目!」と叫ぶ。おしめの中に右手を突っ込み、臭いものをグチャグチャにいじっているのだ。私は これを正確に目視できた訳ではないが、ナースが彼のカーテンを閉めないままだったし、私のベッドの足先が、彼が横たわる右脚に位置するーT字型の位置―ので動作は一応見えている。言うまでもなく私には酷い睡眠妨害の夜となった。夜中の騒ぎが3晩続き、睡眠の妨げを我慢できなくなったので私がナースにクレームしたら、彼女は同情してくれ、夜中に彼をベッドごと部屋からホールの隅に運び出していた。落ち着いて寝られたため、朝起きたときに見たらベッド毎いなくなったのである。一晩中ホールで寝かせたとは、逆に申し訳ないような気もした。
入室一週間も経たずに、彼は施設から病院に移され、私一人の部屋に戻った。
人が他人に怒鳴る、相手は怒鳴り返すという現象は何処の施設にでも起こる現象なのだろう。そして、普通は互いに昨日のことは何事もなかったように意に介さない。しかし、自分にグサッと響いたことを根に持つ人もいる。
テーブルでテレビを漫然と眺めている猫族でもその面前に男性が車椅子でスゥッとやって来てTVの斜め前に陣取り,視野が妨害されると、
「そこ、どいてよ。邪魔よ」とド突く。
「なにを!ばばあ お前見えないのか」と男は女性に顔をむけて毒舌を吐く。男は、そう言いながらも一旦はそこを退く。女性も猫族なので見たくて観ている訳ではない。が、「ばばあ」と呼ばれれば遺恨を抱く。3日経つと記憶が失せる人にとっても、3日以内に同じ事が起これば遺恨は失せない。女性は「あの人を何とかしてちょうだい」と職員に訴えたが、職員はどう措置をしたかは判らない。その後も男性は注意した女性の邪魔を執拗に繰り返し続けていた。女性も毎回「そこどいてよ」と口走る。私は記憶力のなくなった人の間に立って仲裁しても効果がないので、手はつけない。
その男性は私に対しては愛想が良く、顔を合わせるとにこにこしていた。リハビリの話をするときは、男性が、「古川先生の指導は良いですね」と私に感想を述べるほどで、わたしは「本当に効果的にやってくれますね」と応えるなど、筋は通っていた。 朝の洗面と歯磨きは、私はホールに2個並んでいる洗面台でやるのだが、殆ど同時に彼と並ぶ。その時は両方で「お早うございます」の挨拶を交わしていたという関係もある。
洗面台の使用時間は圧倒的に彼の方が長い。バカみたいな話だが、私は、洗面所にある手拭きのペーパーを使ってこれに水を少し盛り、顔の方をペーパーに付けてから顔と首を擦っていた。自分の2人部屋の洗面台で髭をそっていたのになぜホールに来たのか? 洗面タオルを所有してなかったのである。彼はタオルを使っているので顔から首から丹念に拭いていた。それでも、今考えると不思議なことがある。彼は個室の居住者だ。そこには洗面台は当然ある。タオルも持っているのになぜ共用の洗面台を使っていたのだろうか? テレビも個室にあった筈なのに何故“ばばあ”と悪たれを放ちながらホールのTVを見に来るのだろうか? 今分かったことは、彼は人と口を利きたかったということだ。
大山 Tak 卓 1931年生まれ。
介護ホームローズ(仮名)入居者。東京大学法学部卒。国税庁入庁(大蔵事務官)、税務署長。エッソ石油(現エクソンモービル社子会社)税務部に転職、東京及びニューヨーク本社在勤。その後、ファイナンス会社数社の経営に参画。対米、カナダ、香港の投・融資・契約業務実施。国際経営コンサルタント。
編集者:野口 Kao 廣太。1986年生まれ。介護ホームローズ(仮名)施設長。理学療法士。デンマーク国立Egmont校卒。スヌーズレン施設設立。教員アシスタント。デンマーク福祉施設にて障碍者、高齢者への支援を実施。
堀田の書籍はこちら
コミュニケーション活性化で組織力向上! 経営者・管理者が変える介護の現場